障がい児のきょうだいを産む?当事者が語る選択と希望

コラム

障がいのある子のきょうだいを産むか悩む親へ。自閉スペクトラム症の姉を持つ当事者が体験を語ります。きょうだいは介護要員ではなく一人の人生を歩む存在です。過度な罪悪感を手放し、命の選択に向き合うための前向きな視点と判断軸が得られます。

障がい児のきょうだいを産むことは、親の身勝手なのか

一人目の子どもに、自閉スペクトラム症や知的障がいなどがあった時、

次の子どもを産むか、産まないか。

これは、その家族にとって、とても大きな問題になることがあります。

障がい児育児の大変さを経験しているからこそ、
次の子どもにも、もしかしたら障がいがあるのではないか?と
考えてしまうのです。

子どもを授かるということは、人のコントロール下にある部分と、絶対にコントロールできない部分の両方を含んでいますよね。

子どもを望むのか。どのような環境で子どもを迎えるか。どんな支援を準備するか。そこには、考えたり選んだりできることが、ある程度できます。

けれど、
実際に子どもが授かれるのか。
どんな性質を持った子どもが生まれてくるのか。
どんな病気や障がいがあるのか。将来どのような人生を歩むのか。

そこまで、親がすべてコントロールすることはできません。

「障がいのある兄や姉がいたら、いずれその子が面倒を見ることになる。そんな人生を背負わせる可能性があるのに、きょうだいを作るなんて親の身勝手ではないか」

そこまで考えて、次の子どもを産むことに躊躇する親もいます。

また、親自身が、
障がい児のきょうだい児として育ち
「自閉症の遺伝子があるから」
と、子どもを持たない選択をする人もいます。

実際、自閉スペクトラム症には遺伝的要因が大きく関わっていることもわかっています。

しかし、それは「必ず遺伝する」ということではありません。

どれだけ情報を集め、慎重に考えたとしても、どんな子どもが生まれて来るかについては、最後まで人の手の届かない部分があるのです。

子どもを産む人生。
子どもを産まない人生。

自分の経験や状況、
将来への夢と不安と向き合った上で
納得して選ぶことになるのかと思います。

きょうだい児だった私が「もっときょうだいが欲しかった」と思う理由

私には、自閉スペクトラム症と知的障がいのある姉がいます。

子どもの頃、姉と暮らすことはかなり大変でした。

姉は感情の起伏が激しく、こだわりも強く、奇声や暴れることも多々ありました。幼い頃は、大きな怪我をさせられたこともありました。

私は二人きりの子ども部屋で、そんな姉と一人で向き合わなければならない子ども時代でした。
逃げ場もなく、本当にきつかったことを覚えています。

物心ついた頃から私は
「妹か弟が欲しい」
と母に言っていました。

けれど母は、いつも「それは無理」と即答。
障がいのある姉の育児に疲れきっていて、これ以上子どもを産む余裕などなかったのだと思います。

けれど、きょうだい児だった私からすれば、
むしろ、もう一人きょうだいが欲しかったのです。

そして姉が62歳になった今、その気持ちはむしろ強くなっています。

親が要介護になり、私が姉の入院やこれからの生活について考える立場になったとき、

「相談できて、一緒に背負えるきょうだいがいたらな」
と思うことが何度もありました。
これは、介護要員がもっとほしいという意味ではありません。

障がいのある姉にとっても、自分の世界にもっと関わってくれる人が多くいた方が、心強いのでは?と思う場面もあったからです。

障がい児のきょうだいを産むことについて、

「その子の人生が不幸になる」

という一方向からだけ考えることには、私は違和感があります。

きょうだい児の人生には、もちろん大変なことはあります。
けれど、「生まれて来て良かった」と思えることもたくさんあるのです。
その可能性まで否定する必要は、ないのではないか?
それが、私のきょうだい児としての率直な気持ちです。

「苦労があったから、生まれてこなければよかった」とは、一度も思ったことはありません。

きょうだい児は、障がいのあるきょうだいの人生を背負うことになるのか?

ここで、とても大切な線引きがあります。

障がい児の親が

「きょうだいがいてくれたらよかった」と思うことと

「障がいのある子の面倒を見てもらうために、次の子を産む」

ということは全く違う、ということです。

きょうだいは、介護要員として生まれて来るわけではありません。

障がいのある兄や姉がいたとしても、その子には自分自身の人生を生きる権利があります。

親亡き後の生活を、きょうだい一人に背負わせてしまわないように、福祉や医療、行政の支援につなげておく。
家族以外の人とも支えていける形を親ができるだけ作っておくことは、とても大切です。

そして

「障がいのある子がいるのだから、次の子は産まない方がいい」

と決めてしまう必要もないと私は思います。

子どもを授かることには、親が考え、選び、準備できる部分がある一方で、
親の意思だけでは決められない部分の方が、実は多いのです。

男の子なのか、女の子なのかも、
産み分けの方法があると言っても、
完璧にはできません。

生まれて来る子に障がいがあるのか、ないのかも
生まれてみなければわかりません。

どういう性格の子なのか?については、
ある程度育ってみなければ見えて来ないのです。

いろんな可能性を想像して、
それでも子どもを迎えるのか、迎えないのかを、親は考えるのです。

私自身、子どもを産むときには、「もしかしたら自閉スペクトラム症の子どもが生まれるかもしれない」

「別の障がいや病気を持って生まれてくる可能性だってある」

と充分、理解していました。

それでも子どもを産むことを選び、4人の子どもを育てて来ました。

実際に子育てをしてみると、障がいがない子どもを育てることだって、決して簡単ではありませんでした。

想像もしていなかったような、思いがけないことも起こります。

それでも、子どもと一緒に笑った時間や、その子の成長を感じられた瞬間には、何ものにも代えがたい喜びがありました。

そしてこれは、障がいの有無だけできれいに分けられる話でもないと思っています。

健常児なら100。

障がい児なら0。

そんな単純なものではないのですよね。

障がいのない子を産んだから、必ず楽しく幸せな子育てになり

障がいのある子を産んだから、その家族の人生が苦しみだけになるとは限らないです。

私は障がいのある姉と育つ中で、
暴れられてケガをさせられたこともありましたし、
「もういやだ。家を出たい」と思った日もありました。

それでも、自分の人生そのものを「姉がいたから不幸だった」とは捉えていません。

これは私自身の人生を振り返って出てきた答えで
別のきょうだい児には、別の答えがあるでしょう。

遺伝の可能性を考えて、「子どもを持たない」と思う人の選択も、尊重されるべき、とも思います。

それと同じように、「遺伝の可能性はあるけれど、それでも子どもを産みたい」と思ってもいいのではないでしょうか。

どちらかを正しい選択と決めつけることではなくて、

障がいのある人も、きょうだい児も、親も、それぞれが一人の人間として尊重されることが大事なのです。

どんな子どもが生まれたとしても、その命を「幸せになれる命」として迎えられる社会であってほしいですね。

繰り返しますが、子どもを授かることは、人がすべてをコントロールできることではありません。

ほしくて頑張っても、恵まれない人もいます。

だからこそ
生まれて来た命すべてを
他人事ではなく、社会全体で迎え入れて、
育てて行く意識を持つことが大切な気がします。


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