障がい児育児で「生きる意味」に悩むママへ

コラム

重い障がいのある子どもの子育てに疲弊し「この子が生きる意味は?」と悩む親御さんへ。人生の意味は最初から決まっているものではなく、自ら意味づけしていくものです。過酷な現実に向き合う母親の心に寄り添い、今日を生き抜いた自分を肯定するための視点をお届けします。

障がい児の子育てに疲れた。「この子と生きる意味がわからない」と思ってしまうとき

重い障がいのある子どもを育てていると、
「かわいい我が子だから頑張れる」
そんな言葉だけでは、とても追いつかないことがあります。

突然暴れる。
強いこだわりがあって、
ほんの少し予定が変わっただけでもパニックになる。
家族でどこかへ出かけることも難しい。
夜もゆっくり眠れない。
そんな生活が何年も、場合によっては何十年も続いていくと、
親だって、人間です。
疲れますし、腹も立ちます。
こんな生活そのものから、逃げたくなることだってあります。

「この子は、何のために生まれてきたんだろう」

「この子が生きている意味って、何なんだろう」

そんなことを考えてしまう親御さんもいらっしゃるのではないでしょうか?

そこまで追い詰められるほど
障がい児の子育ては、
背負いきれない重い現実が、確かにあるのです。

障がいのある子どもを育てると「生きる意味」を考えざるを得なくなる

普通に毎日を暮らしていると、
「人間は何のために生きているんだろう?」
なんて、あまり考えないですよね。

学校へ行って、仕事をして、恋愛して、結婚して、子どもを育てて、年を取っていく。

なんとなく社会の中に用意された道を歩いている間は、

「生きる意味」を突きつけられる場面は、それほど多くないのかと思います。

でも私は、幼い頃からずっと、
「どうして人は生きるんだろう?」
と考えていました。

それは、私が「きょうだい児」だったことが影響していたのかもしれません。

私の姉には障がいがあり、
幼い頃の姉は、とても激しい子どもでした。

泣きながら自分の頭を拳で叩いたり、妹である私に手をあげたりすることもありました。
一度は耳の鼓膜が破れるほどの、大きなケガをすることもありました。

ところが当時の私は、
それを特別につらいことだとは思っていませんでした。
それが私にとっての「普通の家」だったからです。

ただ、なぜか、
「人は何のために生きているんだろう」
という問いだけは、ずっと心のどこかにありました。

障がいのある子どもを授かった親御さんにも、
似たことが起きるのではないかと思っています。

それまで考えたこともなかった、
「生きるとは何か」
という問いを、突然突きつけられるのです。

そもそも子どもを産むだけでも、女性の世界観は大きく変わりますよね。

それまでは、自分の人生だけを考えていればよかったのに
母親になることで、自分よりも大切だと思える存在が突然現れる。

この子を守らなければ。
この子が社会の中で一人で生きていけるように育てなければ。
幸せな人生を歩めるように、してあげなければ。

そんな願いを持つようになります。

ところが障がいがあるとわかった瞬間、
その「当たり前だと思っていた未来」が大きく揺らぎます。
この子は一人で生きていけるのだろうか?
ずっと誰かの助けを借りなければ生きられないのではないだろうか?

また、本人自身も、生きていることがとても苦しそうに見えることもあります。

親である私ですら、この子との毎日にこれほど疲弊しているのに、
私が死んだら、この子はどうなるのか?

考えないようにしても、
「この子が生きている意味って何なんだろう?」
というところまで考えてしまう。

私の母は、そこを敢えて、考えないようにして生きていた人でした。

姉に障がいがあるという現実そのものを、長いあいだ、認めない生き方を選び
障がいのない子として扱おうとしていたのです。

どうしても隠し切れない時や、都合が悪くなれると
「お姉ちゃんを殺して、私も死ねばいいんでしょう」
と口走る。

「私は障がい者の親ではない」
という人生を、どこまでも貫こうとしたのだと思います。

そして母が年老いて動けなくなった瞬間、
姉にまつわるさまざまなことが、きょうだいである私のところへ丸投げされました。

私はそこで改めて、
「障がいのある人が生きる意味とは何だろう」
という、子どもの頃から持っていた問いと向き合うことになりました。

「この子が生きる意味」ではなく、自分がこの人生をどう意味づけるか

私は今、
障がいのある人が生きていることに
「意味があるのか、ないのか」
その議論そのものが、あまり意味を持たないと思っています。

なぜなら、
誰かが外から判定できることではないですし、障がいがなくても、
社会的に成功していても、
その人の人生に「意味がある」と誰が証明できるのでしょう?

反対に、
働くことができない。
誰かの介助なしには暮らせない。
だからその人の人生には意味がない。
そんなことも、誰にも決められないと思います。

人生の意味は、最初からどこかに用意されているものではなく、自分が意味づけしていくものなのではないでしょうか?

正解もない。
不正解もない。

それぞれの人が、
「私はこの人生を、こう受け取る」
と決めた道だけが、その人の後ろに残っていくだけです。

私の母には、母が選んだ道がありました。
障がいのある姉を、障がいのない子として生きさせようとした人生。

それが良かったのか悪かったのか。
今になって私がジャッジできるものでもありません。
ただ、母が歩いた道が、残っただけです。

そして私は、
「障がいのある姉を持った、きょうだい児として生きる」
という道を歩いています。

姉がどんな子どもだったのか。
家の中で何が起きていたのか。
どんなふうに育てられ、
20歳前後で統合失調症を発症し、
60代になった今、再び入院生活を送っているのか。

私は、それを書き残していこうと思っています。
私たち家族が歩いた道を書くことで、いつかどこかで、
同じように障がいのある家族を抱え、
「どうして私だけが、こんな人生なんだろう」
と途方に暮れている誰かが読んでくれるかもしれません。

「ああ、こんな家族もいたんだ」

「こんなふうに考えて生きている人もいるんだ」

そう思ってもらえたら
私たち家族が生きてきた時間が、
誰かの小さな道標になる可能性があるからです。
私は、そこに意味を感じています。

姉がいた人生を、私自身がどう受け取るかは選べます。
苦労だけだった、と終わることもできますが、
体験したものを言葉にして、次の誰かへ渡していくことも出来ます。

生きる意味とは、
生まれた瞬間から与えられている答えを探し当てることではなく、
生きながら、自分でつくっていくものです。

目に見える世界だけを見れば、
「何の役に立つの?」と
マイナスにしか見えなくとも
一人の人がただ生きたという事実が、
何十年も経ってから、別の誰かに気づきや救いをあたえることもあるのです。
その「目に見えないプラス」は、
その瞬間にはわかりません。

ただ生きたということが、目に見えるマイナスを超えて、目に見えないところで誰かの人生にプラスとして働くことがある。

そう信じています。

もし今、
障がいのある我が子を前にして、

「この子は何のために生きているんだろう」
と考えているのなら、

今日、その答えを出さなくてもいいのです。

まずは、
「私は、この人生をどう生きたいのだろう」
と、自分の側から問い直してみてください。

愛で生きたいのか?
それとも今はおそれがまさっているのか?
おそれが勝っている今日でも、構わないのです。

答えは、一度決めたら変えてはいけないものでもありません。

あなたとその子が生きてきた時間の意味は、
これから先にも、何度でも変わっていきます。

今日一日を、生きたことがもう、それだけで素晴らしいと私は本気で思います。
自分にこう語りかけてみてくださいね。

今日も、がんばったね。
今日も精一杯、愛したね。
命を守ったね。お疲れさま。よくやった!

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