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2010年2月 当時私は、41歳

子供は・・・
高校生の長男・ハナミチ。
中学生の長女・ラム。
小学生の二男・ぽっぽ。
三児の母。4人家族。

夫は3年前(2007年)から別居中。

夫婦問題に向き合っていた時期についての私の記録ですので、DVや夫婦問題を抱えた人のなにかヒントになれば幸いです。

目次

忘れもしない2006年10月  2010-02-07
モラハラ体験 -結婚生活編ー  2010-02-09
モラハラ体験 -番外編ー    2010-02-09
DV体験 ー護身編ー      2010-02-10
DV体験 ・・・その後・・・  2010-02-11
別居のきっかけ         2010-02-20
45才で自然妊娠しました    2013-12-20
お礼&今の気持ち        2013-12-21
あとがき

忘れもしない2006年10月 2010-02-07

夫から殺されるかと思うほどの激しい暴力を振るわれました。

1、2発ひっぱたかれることはそれまで何度かありましたが、馬乗りになって殴られるというのは初めてのことでした。

まさか夫がそこまでするなんて、思っていなかったから、すごくショックでした。

当時小学5年生だった長女のラムがその場面を目撃してしまい、しばらく学校に行けなくなりました。

私は、ラムに大変な心の傷を作ってしまったと、そのこともすごくショックでした。

それから、夫を怒らせないように、地雷を踏まないように、今思い出しても息が詰まりそうな半年間が過ぎました。

料理の味、出すタイミング、掃除、整理整頓。
細心の注意を払いました。

しかし、半年経ったある日、思いがけないところで大きな地雷を踏んでしまったのです。

それは、私が友人から貰った一冊の本。

それが気に入らないというのです。

もはや、何が怒りのツボなのか全く予測不能、本の奪い合いになり、太ももを思い切り噛みついてくるという、意味不明な暴力でした。

それから、相談していた親族が間に入ってくれて何とか別居に漕ぎ着けました。

別居してしばらくは何も考えられずただただ寝て過ごしました。

「何故こんなことになってしまったのか?」
「何が原因なのか?」

全くわかりませんでした。

物凄く疲れていたけれど、日常生活は淡々と送れていました。

こんなことがあったのに、鬱病にもならないで普通に生活できる自分が不思議でした。

それからの夫のいない生活、何故か、とても苦しかった。

その苦しさの理由は・・・

ドアのバタンという音。
携帯の着信音。
階段を上がる靴音。

そんな些細な音に対する恐怖心でした。

心臓が締め付けられるように苦しい。
バクバクして叫びたくなる。
涙が出て来る。

そんな自分の状態はどこかおかしいあせる別居して2年経って、やっと気付くことが出来ました。

やっぱり、私は普通じゃない。病気だ。

決心をして、荻尚子さんのカウンセリングを受けました。

今、私は以前の苦しい症状はだいぶ緩和されて来ていると実感しています。夫から心が離れて来たのもあります。

どうして恐怖心が薄らいだのか?

言葉にするのは難しいけれど、これから少しずつそういうことについて書いていけたらいいと思っています。

でもまだ私は道の途中。

完全に乗り越えた訳じゃない。
これからもいっぱい大変なことがあると思います。
その体験の中で私が感じること、気付いたことを書いて行きたいです。

モラハラDVに苦しんでいる人たち、みんな救われたいよね?
幸せになりたいよね?

子供たちにも幸せになってほしいよね?
どうしたらいいの?

すごく難しいけど、出来ると私は信じています。

モラハラ体験 -結婚生活編ー 2010-02-09

不思議なんですけど、いろいろ思い出していると・・・

記憶が飛んでいる部分とがいっぱいあって文章にすることがとても難しいと感じます。

それは多分、夫との関わりの中で、「自分がどう感じたか?」が抜け落ちているからなんですね。

「イヤだった」
「悲しかった」
「怒りたかった」・・・

そういう感情を表現することが出来なかったからだと思うんです。

自分の感情をありのままに表現する・・・

・・・それはいつのまにか「わがまま」という言葉に置き換えられて、してはいけないことだと思って生きてきました。

(だって、そう言って何度も何度も怒られるんだもん)

だったら夫は怒りたい時に怒って、わがままじゃないのか?

当然そういう疑問が出て来ますけれど、それを言った時の夫の答えはこうでした。

「俺は外で一日中働いて来て疲れているんだ。お前は家にいて気を使う上司とかいないだろ?ママ友達と楽しくやっていていいよな。俺はお前と違って大変なんだよ。家ではリラックスしたいんだ。気を使いたくないんだよ。

夫を家でゆっくりさせるのが妻の仕事だろ?お前は俺の他に気を使う相手がいないんだから、せめて俺くらいには気を使えよ。せめて俺くらいにはさ・・・」

こんなふうに言われると、

「ああ、私は家にいる分この人よりもラクしてるんだ。
外でツライ思いをして働いて家族を養ってくれているんだから、せめて家にいる時くらいはいい気分で過ごさせてあげなくちゃ」

そう思って、どんなに理不尽な怒りにも謝り、無茶な命令にも従い、言っていることが変でも相槌を打つ。

そんな妻になってしまいました

恐ろしいことにそんな自分になっていることに、全く危機感がなかったんですよね。

むしろ、

「妻として、女として、人間として、私は成長してるんだ」

ぐらいに思っていましたから、本当に怖い

更に恐ろしいことに

「こんな難しい人に尽くせるのは私ぐらいだろう。きっと私が先に死んだら、夫は私に感謝してくれる。お前しか俺のことをわかってくれる人はいないと、思ってくれるにちがいない」

そんなことを考えていました

私って、どんだけ存在が不安だったんだ!?

夫に、そして夫の親に、認められることが存在理由みたいにいつのまにかなってしまっていた。・・・完全完璧な共依存な私でした。

それまで十数年の結婚生活の間ずうっと夫はモラ星人でしたが、「夫に関してちょっと悩みはあるけど、まあまあ我が家は幸せだ」と、私は本気で思っていました。

モラ星人の夫と共依存な妻で、大変いびつながらもバランスがとれていたのですから。

このまま死ぬまで行っていたら、私はどうなっていたのでしょう?

・・・きっと私の母のように、また夫の母のようになって一生を終わっていたでしょう

今振り返ると、「自分の感情を出すのはわがまま」→「だからダメ」という規則が絶対家族だったんだな、と切実に思います。

それでも衝動的に出る感情が、時にはケンカを引き起こしました。

それでケンカのあと、反省するんです。
「(自分の感情を出して)おとなげなかったな」と。
いびつではあっても、バランスがとれていた私と夫との関係。
そのバランスが崩れる時がやって来ました。

モラハラ体験 -番外編ー 2010-02-09

私にとって、理不尽な彼の怒りや、一方的な物言いは、まだまだ我慢の出来る範疇でした。

何故なら、夫が悪ければ悪いほど何だか自分がいい人になってゆくような快感があり、人に、周囲に、認められて行くような気がしていたからです。

でも、どうにも手に負えない問題が大きくなっていった。・・・

それは夫のアルコールの問題でした。

夫はお酒が大好きに

私の料理がうまく出来れば「これは美味しいお酒と食べなくちゃな!」と言い、おかずが口に合わなければ「こんな飯じゃ、酒でも飲まなけりゃやってられない」と言い、イヤなことがあったと言ってはやけ酒を飲み、いいことがあった日は祝杯をあげる・・・

そんな夫に、下戸の私は心底うんざりしていました。
もちろん、お酒を飲んで機嫌が良ければ何の問題もない。

夫の場合、飲んで帰ると本当に深夜でも人を起こす。

話が一方的で長く、どう反応しても怒り、怒鳴り散らす。
寝かせてくれない。

セックスを強要し、避妊をしてくれない。
子供が起きてもおかまいなしということもありました。

(子供は小さかったので、ママがパパに苛められていると思ったようです)

黙って夫の話を聞いていれば「無視するな」と怒られ、何か話せば「気に入らない!」と怒鳴られる。

いいなりになってその場が落ち着くなら、いくらでもいいなりになるけれど、お酒が入った夫にはそれさえ通用しなかった。

もはや打つ手なし。

「私はどうしたらいいの?」

そう聞くと、

「そんなこと知るか!自分で考えろ」

麻酔銃が何処かに売っているなら、即買いして、こんな時撃つのに・・・と何度思ったか知れません。

そんな悪夢のような夜が明けての翌朝、夫は二日酔いでおとなしい。

「昨夜のようなことはもう辞めて欲しいんだけど」

と言うと、全く何も覚えていない

「すごく怒鳴られて、寝かせて貰えなくて、もう死にたくなった」

と訴えると

「それはお前が何か怒らせる態度をとったからだろう?」

まるで人ごとのよう・・・。
こんなことが何度もあり、夫はいつしか酒量が増え、休日は朝から飲むようになっていきました。

もう、本当に本当に、お酒が怖かった。

土曜の昼、長男のハナミチが部活から帰るのが遅い!と激怒した夫は、「ハナミチは何処だー!!」と怒鳴りながら自転車で中学の校庭を爆走しました。

酒が入ると見境がない。
やがて夫は体を壊しました。
ひどい下痢が続いて、とうとう血便が出たのです。

「お前、何か悪いものを俺に食べさせたな」

明らかに深酒が原因なのに、当然のように私の料理のせいにしました。

お酒にまつわるエピソードはまだまだ沢山あり・・・

次第に私は「アルコール依存症かも知れない」と思うようになっていきました。
もはや、「悩みはあるけどそこそこ幸せ」なんて甘っちょろいことは言ってられない。

確実に崩壊の足音が聞こえていました。

そして、決定的な事件が起こりました。

2006年秋、馬乗りになって死ぬかと思われるほど殴られた!

あの事件の夜も夫はかなり飲んでいました。

アルコールの問題。これがモラ夫と共依存妻のいびつなバランスを崩したもの。

最初の気付きの第一歩だったのです。

DV体験 ー護身編ー 2010-02-10

暴力を振るう時の男の様子。

実際、暴力が始まってしまったらどうしたらいいのか?(身体的被害を最小限にするにはどうするか?)

私の体験を読んで頭の片隅にでも残しておいてくれたら、もしもの時に少しでも役に立つかもしれない。・・・

そして自分にとっても、思い出すことによって、新たに感情を取り戻すきっかけになるかも知れない。・・・

そんな想いを込めて、ちょっとキツイけれどショック!やってみようと思います。

激しく暴力を振るわれた時の記憶は、とても断片的で、ぼんやりとしている一面、とてつもなく強烈です。

記憶の中に戻るとうわーっ!!と叫びたくなるようないたたまれなさを感じます。
その夜、夫が帰宅したのはそんな深夜という訳でもなく、私は起きてパソコンに向かっていました。

「早い時間だから、そんなに飲んでいるという訳ではなさそう」

私は油断していました。

夫は何度もしつこく「ただいま」を言いながら私に近づいてきました。

「ごめんね。PTAのプリントを作らなくちゃいけないの。もうすぐ終わるから」

夫は背後からパソコンの画面を覗き込んでいました。

「こんな下手なもの作りやがって」

いまましそうに夫が呟きました。

夫は私がPTAの活動をしたり、ママさんサークルに入ったりすることも面白くないようでした。

私が夫のこと以外で忙しくしたり、気を使ったり、悩んだりすることが我慢できないという風でした。

集中できないので、諦めてパソコンを閉じました。

その日は金曜日だったので、この週末をどのように過ごすかに話が行きました。

「明日はハナミチの学校公開の日で、授業参観があるの」
「どうせ、ハナミチは俺なんかに来て欲しくはないんだろ?」

夫はカマをかけているのでした。

「そんなことないわよ。来て欲しいに決まっているじゃないの」

そう言って貰うのを待っていました。

でも、私は黙っていました。

ハナミチが寝る前に「パパには来て欲しくない」と言ったのを聞いていたから、どうしても夫の待っている言葉が出て来なかったのです。

夫の機嫌がドーンという音をたてて悪くなるのがわかりました。

「どうなんだよ。ハナミチは俺に来て欲しいのか?欲しくないのか?」

その時私もイライラとしていました。

明日までプリントを作っておきたかったのに出来なかったせいもあったかも知れません。

いつになくぞんざいに言い放ってしまいました。

「ええ。来て欲しくないって。そうやって、絡まないでよ。甘えないで」

甘えないで・・・

その一言が地雷でした

「なにー甘えてるだとー!!」

その剣幕にびっくりして夫の顔を見ると、真っ青で、今までこんなに恐ろしい形相の人間を見たことがない!と思うほどのとんでもない状況になっていました。

一発殴られましたが、恐ろしさのあまり私はかたまってしまって、ただただ夫から目が離せない状態になっていたのだと思います。

(ここらへんの記憶はあまりありません)

吐き出すように私を罵り、「もう、何がどうなってもいい、終りだ」というようなことを何度も何度も叫びながら私を数発殴りました。

私はベッドルームに逃げました。

夫はすごい勢いで追いかけて来ました。

今度は馬乗りになって殴られました。
馬乗りになって殴っている時の夫の顔はよく覚えています。

「この人、とことんまでやる気だな」と思いました。急に怖くなりました。殺されると思いました。

「きゃー!誰か助けてー!」

ベッドルームは表の通りに面しています。

誰か通行人が助けてくれるのではないかと咄嗟に考えましたが、無駄でした。私が叫んだことによってますます殴られました。

股間を蹴ってみましたが、何の効き目もなく、ますます怒らせてしまいました。

逃げようとしましたが、髪をつかまれて引きずり戻され、もっとひどいことになってしまいました。

ふと、ハナミチが以前夫に殴られそうになった時、布団にくるまって逃げたことを思い出しました。

近くにあった掛け布団をバッとかぶり、体を丸くして防御態勢をとりました。

夫は布団の上からも殴りました。

でも顔を殴られているよりは全然マシでした。

布団を引っ剥がされそうになったけれど、意地でも布団を放しませんでした。

そのうち、夫は殴りつかれました。
息があがって、へたり込みました。
動かなくなりました。

私は、布団に助けられたと思っています。

あれがなかったら、大怪我になっていたと思います。近くに刃物や鈍器があったら殺されていたかも知れません。

今、あの時を振り返って思うのは、普段護身術を練習している人は別として股間をけるなどということは何の役にもたたないこと。

逃げようとするのは、かえって危ないということもあること。
暴力が始まったら、とにかく布団などで身を守ること。
相手はいつか疲れ果てる時が来るから、それまで出来るだけ身を守ること。

頭の片隅に置いておいて下さい。

役に立つ人がもしかしたらいるかも知れないから・・・。

DV体験 ・・・その後・・・ 2010-02-11

暴力を振るわれた後って、全く思考能力が無くなってしまって、感情も無くなってしまって記憶も定かではないのです。

ぼんやりと霞がかかっている記憶です。

夫の暴力の途中で真ん中の女の子、ラム(当時小5)が目を覚まし、ベッドルームのドアの向こうで一部始終を見ていたのに気付いたのは夫の方が先でした。

「あっちへ行ってろ!」

と一言怒鳴っただけで、子供が見ているからといって暴力は止みませんでした。

夫が殴り疲れて倒れこんだ時、私はすぐにラムのところに行きました。

ラムは顔を真っ赤にして泣いていました。

ラムの肩を抱き、素早くキッチンに置いてあった携帯をとり、我が家で唯一鍵のかかるラムの部屋に入り内鍵をかけました。

(長男ハナミチと一番下のぽっぽは別の部屋に寝ていて、幸い目を覚まさなかったようでした。)

私とラムは暫らく抱き合いました。
二人ともブルブル体が震えていました。
歯もガクガクなっていました。

どのくらいの間そうしていたのかわかりません。

やがて、鍵のかかったドアをガチャガチャ開けようとする音で我にかえりました。

夫が再び起き上がり、更に追い打ちをかけようと襲って来たのでした。

何か怒鳴っていました。

「助けを呼ばなくちゃ」

すぐにそう思いました。

「警察?」

頭をよぎりましたが、物凄い抵抗がありました。
次に母のことが頭をよぎりました。

でも、年をとった母に電話したところで何の解決にもならないとおもいました。

結局、近所に住んでいる一番親しいママ友達の携帯に電話しました。

もう、12時を過ぎていましたが、友達は電話に出てくれました。

友達が

「もしもし?」

と何度も聞いているのに、私は声が出ませんでした。

携帯に私からの電話だとわかっているので、何かあったとすぐ察知してくれました。

その友達も昔、ご主人の問題で離婚を考えたことがある人だったので、だいたい家の事情は話していたのです。

少し落ち着いてから

「旦那に、物凄く殴られちゃって・・・」

やっと声がでましたが、声が異常に震えていました。
20分後ぐらいに、その友達が御主人と一緒に来てくれました。

他にも同じマンションに住んでいる知りあいをかき集めて6人ぐらいいました。

呼び鈴が鳴って、何も知らない夫は鍵を開けました。
ドカドカとみんなで上がり込んでくる音が聞こえました。
私は体の力が一気に抜けるのを感じました。

鍵に掛かった部屋の向こうで、友達と夫が言い合いになっていました。

私はたまらず部屋の外に出ました。
友達は、私の顔を見て抱きしめてくれました。

それから、みんなが夫に

「暴力はいけない」

ということを説得してくれていましたが、夫は友達に向かって

「あんたみたいなタイプは好きじゃない」

とか意味のわからないことを言って追い返しそうとしていました。

友達の御主人は

「お宅に暴れられたら私一人じゃ怖いんで、何人か集めて来た」

と冷静に言いました。
夫は男の人たちが四人いたので内心ビビっていたのだと思います。

さっきの勢いは無くなっていました。

それでもプライドが高いので、言葉巧みに一生懸命取り繕おうとしていました。

私は友達が持って来てくれた冷たいタオルで顔を冷やしてボーっとしていました。何をどのくらい話し合ったのか、その後どういたのかあまり覚えていません。
翌朝、リビングにはビールの缶が散乱していました。

夫はあれからもひとしきり飲んだみたいでした。
娘が一晩中腹痛と嘔吐で苦しんでいました。

それから暫らく、学校にいけなくなりました。

病院で薬を貰い、薬で下痢は止まるのですが、薬を止めるとまた下痢をしたり吐いたりしました。

そんな娘の様子を見て夫は、
「ヤブ医者め。病院変えろよ」
と言いました。

自分の暴力を見たせいだとは微塵も思わないようでした。
それから、私はその夜来てくれた友達を含めて、一切の友人関係の制限を受けるようになりました。

携帯はチェックされて当たり前。

文句を言うことも出来ませんでした。

友達に、
「病院へ行った方がいいよ。何かの証拠になるから」
と言われました。
でも、なかなかそういう気にはなれませんでした。

夫から暴力を振るわれたと病院で言うことには何だかとても抵抗がありました。

その時の暴力で被った身体的な怪我は・・・

体中が青あざだらけで洋服の着脱も難しいくらいでした。

左の耳の聞こえが悪くなっていました(今も悪いです)

頭が一番痛くて、髪を持って引きずりまわされたので、頭皮がブヨブヨになっている感じでした。

そんな体の痛みよりも心の痛みの方が大きくて身動きが出来ない感じでした。

一体自分が怒っているのか悲しんでいるのか悔しいのかどう思っているのか全然感情が沸いてこないのです。

だから淡々といつものように家事をして子供のことをやって普通に過ごしました。

夫も普通に会社に行き、お酒を飲んで帰宅し、何も無かったような態度でした。
よくDVを受けたら、警察に連絡をするべきだとか怪我の証拠写真を撮っておくべきだとか病院へ行って診断書を貰っておくべきだとかいうけれど・・・

そんなこと出来たら被害者なんかになっていないと思うんです。

夫のことを警察なんかに突き出せない。
夫を追い詰めることなんか絶対に出来ない。

・・・そんな精神性の人間がDVを受けるのではないのでしょうか?

私はDVを受けた後の自分の行動について沢山の後悔があります。

やっぱり、友達なんかじゃなく警察を呼べば良かった。

その後、友達には多大な迷惑をかけお付き合いが出来なくなってしまいました。

巻き込んでしまって、本当に申し訳ないことをしたと思っています。

別居のきっかけ 2010-02-20

このままではいけない。
何とかしなくちゃ。

薄氷の上をそっと歩くような毎日の中で、私はそんなことばかり考えていました。

でも、夫がおとなしい日々が続くと

「このまま何とかなるんじゃないか?」

と思ってしまう。

夫が飲んでどす黒いオーラを出している時は、鍵のかかる部屋で女性センターの電話番号の紙と携帯電話を握りしめ子どもたちと震えていました。

そんな時夫はドアをバンバン叩いて怒鳴り、同じ家の中にいるのに携帯を鳴らしまくって「出てこい」と言い続けました。

今振り返ってみて、自分のことながら「よく生きていたな」と思います・・・。
子どもたちにも、どんだけ辛いおもいをさせてしまったかと思うと、怖くなります。

なのに、私は自分から決定的な決断が出来なかった。
逃げ出す力さえもなかった。

転機は思いがけない一本の電話でした。

その日も休日で、家族全員家にいました。

電話は夫の姉からでした。

「もしもし、芙蓉ちゃん。どうしてる?あいつはちゃんと断酒会通って、お酒止めてるの?」

夫のお姉さんと言う人は、今は普通の主婦・二児の母ですが、結婚前は心理士として精神病院に勤務していたことがあるのです。

夫が暴力を振るったことやアルコール依存症と診断されたことは義姉には話していました。

「それが・・・自分はやっぱりアルコール依存症なんかじゃないって。お酒も普通に飲んでいます」

私は、家族の近況を手短に話しました。

アラノンの本を発見されたことや、軽い暴力がまたあったことも話しました。

「芙蓉ちゃん、それでいいわけ?それであいつにご飯作ったり、洗濯したりしてやってるわけ?信じられない。もうそんなことしてやらなくていいから。ちょっと、弟に電話代わってちょうだい」

私は別部屋にいた夫に受話器を持って行きました。

暫らくして、

「姉ちゃんが今度はお前に代われだって」

と、夫が青ざめた顔で受話器を持って来て、私に渡しました。

「芙蓉ちゃん。今、弟に、自分で不動産屋に行ってアパート探してそこを出て行きなさいと言っておいたから。子どもたちの為にも、あんたたちは物理的に距離を置かなくちゃダメ。じゃあね」

義姉は早口でそれだけ言って電話を切りました。
「本当にお前も俺に出て行って欲しいと思っているのか?」

夫の声は震えていました。
縋るような目をしていました。

私はその時、
「これは神様がくれたチャンスだ」
と思いました。

何のためらいも躊躇もなく
「出て行って欲しいと思ってる」
と言葉が出て来ました。

自分でも、不思議なくらいに。
夫はその後荷物をまとめ、車で出て行きました。

その時、子どもたちは三人並んで、リビングでテレビを見ていました。

電話の内容も、私と夫との会話も全部聞いていました。

夫は最後に三人のうしろ姿を目に焼き付けるように愛しそうに見ていました。

その表情を忘れることが出来ません。

ドアが閉まり、下の駐車場から車のエンジンをかける音が聞こえアスファルトを滑って行くタイヤの音が遠ざかって行きました。

私はその音をずっと聞いていました。

夫が出て行った・・・。

ほっとしたような

不安なような、何とも言えない気持ちになったのをよく覚えています。

その後、子どもと私はうどんを作って昼ご飯を食べました。

子どもたちはみんな穏やかな顔をしてニコニコ笑ったりもしていました。

急に激しい雨が降り始めました。

スコールみたいに、窓の外が煙に包まれたみたいに真っ白になりました。

ラムがポツンと言いました。

「パパ、大丈夫かな?雨が嫌いだから」

「大丈夫だよ。大人なんだから」

ハナミチが答えました。

「この雨があがったら、虹が出るといいのにね。」

ラムが言いました。

「何で?」

私が聞きました。

「だって雨のあとに虹が出たら、パパも神様に愛されていることが分かるんじゃないかな」

ラムが答えました。

「あ、そう言えば家の車トヨタのノアだしひらめき電球」

ハナミチがツッコミました。

キリスト教系の幼稚園に通い、教会の日曜学校にも行っていたハナミチとラムはこの激しい雨に「ノアの大洪水」の話を思い出したみたいでした。

私は、子どもたちの会話・表情に驚いていました。

こんな状況でも、子どもたちは希望を持っているんだ。・・・

あの日から、もうすぐ3年が経とうとしています。

あれからいろいろなことがあり、子どもたちはそれから大変化し、成長しました。

子どもたちについては、また少しずつ書いて行きたいとおもってマス。

45才で自然妊娠しました 2013-12-20

夜勤明けで、産婦人科を受診しました。

まさか妊娠とは全く思っていなかったんですね。

ここ数年、生理が数週間遅れることは珍しくないですし、決して小さいとは言えない子宮筋腫がふたつもある…と、去年のがん検診で言われていました。

その時超音波で見たら、子宮の中いっぱいに直径6センチと3センチの筋腫。

「摘出するほどではないですし、経過を見て行きましょう」
と医師にいわれていました。
そしてここ一週間、下腹部に違和感がありました。

何だか固く膨らんで来ているような感じがし、頻尿になっている。

てっきり筋腫が大きく成長してしまったと思いました。

「まさかガンでは?」と考えてしまったり、変に心配になったりして…

「何だか変なの…」
と夫に固くなった下腹部を触って貰ったら
「早く病院行って来い」
と言われていました。

今週は仕事が詰まっていて、週末からクリスマスは山形に行く予定です。

夜勤明けの昨日、「行くなら今日しかない」と思いっきって受診しました。
そうしたら…何と妊娠

もうびっくり以外の何ものでもでもありません!

二つある6センチと3センチの筋腫は子宮の上に押し上げられている状況で、子宮は大きくなっていて、妊娠&出産に何の問題もない場所に、赤ちゃんはお部屋を作り、そのお部屋の真ん中で、小さな心臓を力強くパクッパクッと動かしていたのです。

その映像を見た時、「これは奇跡だ…この赤ちゃんは、どうしてもここに降りてこなくちゃいけなかったんだ…」と感じました。

頭の中はかなり混乱していましたが、そのたった3ミリの命の形を見た時、何とも言えない愛おしさが沸き起こって来たのです。

「私、45才ですよ。大丈夫なんでしょうか?」

「今のところ、ごく普通の妊娠です。順調ですよ」
と医師。

診察を終えてすぐにLINEで夫に報告しました。

「本当?」
「家に帰ってゆっくり話を聞かせて」

と返事が帰って来ました。

それからブログのアメンバー限定記事をアップすると、次々に温かいコメントが入って来ました

だんだんと実感が湧いて来ると同時に、えらいことになったな…と。

「身体を大事にして下さい」との皆さんからのメッセージで、

「そうか、身体を大事にしないといけないのか」と気が付く始末あせるだって、さっきまで夜勤していて、利用者の移乗したりガンガン力仕事していたんですもん。

ネットで「45才妊娠」を検索すると、恐ろしいデータが出てきました。

「45才で妊娠出来るのは、100人に2~3人。

それは着床と心拍を確認出来るところまで行けるのがこの数字で、これから15週までの間に50%以上の確率で流産になる。」

確率的に半々以下ってことじゃないですか!

こりゃ、大事にしなくちゃいけないじゃないですか。
力仕事とか、ダメに決まっているじゃないですか。

そうこうするうち、ハナミチが帰って来たので一部始終を話をすると、もう、超ニヤニヤ。大喜び。

「絶対流産したらダメだよ。仕事先に今すぐ電話して」
と厳しく言われてしまいました。
夜遅く帰って来た夫は、
「今日だけ、愚痴を言うぞ。もう金輪際、言わないから、今日だけは言う」
と宣言し

「自信がない。その子が成人するまで、これからまた20年、経済的にやって行けるのか?自信がない。

今までの人生いろいろあって、やっとこれからは落ち着いて、好きな釣りとかやって老後に向かってのんびり行けると思っていたのに、これからまた子育てするなんて気力がないよ。どうして俺はいつもこうなんだ。子供が出来た、ということで手放して喜べないんだ。

ハナミチの時もそうだった。
いつも自信がないんだ。

それで自己嫌悪に陥るんだ。こんな事を思うことで、自己嫌悪に陥るんだよ」

と言いました。

私は黙って話を聞いていました。

夫の気持ちがよくわかり、そんな愚痴を言う夫を悲しいとも、酷いとも思いませんでした。

ある意味、私も同感だからです。

確かに、私も自信なんてない。

45才で健康に産めるのか、子育てする体力があるのか、自信なんてないのは同じことです。

これからの人生、少しはラク出来ると思っていたのも、私も同じでした。

「でも、これはすごいことだよな。ホント、すげーよ。

まさに奇跡だ。

お前はとにかく、次世代に繋ぐ役目をしろと言われているのなら、やるしかないんだよな。

そんな気もするんだ。

俺の周りにも、出来なくて大変な思いをしている奴がいっぱいいるからさ、そんな人から見たら、45才と46才で子供が出来るなんて奇跡だろ?

50%が流産するというなら、成り行きを見守るしかない。

でも何だか、大丈夫なような気がするんだよな。そんなすごいところをくぐり抜けてお腹に入って来た奴だぜ。

強そうな気がする。

それに俺、子どもが好きな部類の人間だからさ、生まれて来たら来たで可愛いんだろうなと思うし…

何だか、女の子のような気がする。名前は、さゆり。さゆりだな」
というわけで、さゆりに決まりましたf^_^;)

成り行きに、まかせる。
私もそう思っていました。

自信なんてないけれど、全ては必然。
意味があって起こる。

特にこの妊娠は、人知を遥に超えたところで何かが動いて起こっていることは確かなこと。

私に力があるとか、夫に自信があるとかそういう問題ではなく、ただ神様のされることに身を任せているしかないことだな、と思います。

だから、割と落ち着いています。

現実的に考えると、これから出産なんてえらいことになった、としか言いようがないのですが、越えられない試練は来ないことを、今まで嫌という程経験して来ました。

どんなことでも、何とかなる。

流産になるとしたら、染色体の異常で生まれられない状態だから流産するということなので、私は普通に生活して、神様の采配に委ねているだけです。

でも、非常識な力仕事をするとか、子どもに優しくないことはしたくないので、仕事先には報告して、取り敢えず休ませてもらうことにしました。

お礼&今の気持ち 2013-12-21

皆さんのブログへのコメントを読んで、実感が沸いて来ると言うか…医学的には、流産の可能性が50パーセント以上とのことですが、私の不注意で流してしまうことがないように、本当に出来るだけ大事にしようと心引き締まりました。

昨日は突然ゆうちんがうちを訪ねて下さって、すごい祝福を運んで来てくれました。

こんなに喜んで下さる方がいること…一体この命はどういうお役目なの?

自分のお腹に宿ってはいるものの、何だか自分の存在とは関係のない別の存在のような、不思議な感覚さえしています。

夫と話しました。

子宮筋腫のある45才に子どもが宿る事だけでも奇跡だけれど、そもそも私と夫は2年前にはまだ別居状態で、殆ど離婚していてもおかしくない関係だった夫婦…

DVモラハラ、女性問題、宗教の違い、親族を巻き込んで憎しみ合い、傷つけ合って来てしまいました。

そこから再び同居してやり直せただけでも、充分…充分に奇跡なんですよね。

その奇跡の復縁の先に、45才で自然妊娠という奇跡。
ハッキリ言って、メチャクチャ妊娠したかった訳ではありません。

私たちは、20才、18才、13才の三人子供が既にいて、子育ても半分以上終わったような状況。

長男はこの1月は成人式、長女は看護大学への進学も決まって、やれやれとホッとしていたところでした。

42.195キロをあと少しで走り終えるという時に、「まだもう1レース走りなさい」と言われるような、そんな気持ちも無きにしも非ず…

それでも、あのお腹の中の超音波映像を思うと、何か神様の計画があるんだろうな、私たちには何の力も無いけれど、運命に身を委ねて行くしかない。

運命を喜んで受け容れて行くだけだな…

妙に謙虚な、平安な気持ちになるから不思議です。

「頑張るぞ!」
↑そんな気概もないんです(笑)

運命を受け容れて行こう、ありのままに受け容れて行こう、そんな穏やかな気持ちです。

これから先のことは神様に任せて、私は今の私に出来ることを一つ一つ感謝しながらやって行くだけだな…と思います。

このお腹に宿った命を、祝福して下さってありがとうございます。

そして、この命を大切に思って下さる想いがこんなにあること、心強く思います。

その事もまた奇跡。

こんなに沢山の愛のエネルギーを受けられることも奇跡です。

本当にありがとうございます。

出産時のこと 2014-07-29

今回の出産、自然分娩になるのなら、助産師志望のラムに是非立ち会わせたい…というのが希望でした。

しかし、ラムが大学の試験期間であるにも関わらず、必死に帰って来たのに、なかなかお産はうまく進みませんでした。

結局、どうでもいいと思っていた夫が、立ち会うことになったんですね。

その、夫の立会いが、神様の計画だったのか?
さゆりちゃんの希望だったのか?

はたまた神様とさゆりちゃんの話し合いだったのか?

産後一日目の今日、分娩を担当して下さった助産師さんが、出産の感想などを聴きにいらっしゃったんですね。

バースプランと照らし合わせて、実際のお産はどうだったか?…ということを尋ねられました。

うーん。

助産師さんたちのお仕事がすごく素晴らしくて、途中の声かけに励まされたり、勇気を貰ったり出来たし、是非、そういう仕事ぶりをラムに見せたかった思いはあります。

そして何より、自分の妹が産まれるという瞬間に立ち会う感動を味わって欲しかった…

でも、この病院では、立会いが出来る家族は1人だけ、と決まっています。

ラムが立ち会えば、夫は立ち会わなかった訳です。
夫は、はっきり言って、どっちでも良かったのですが、何と無くその場の雰囲気で立ち会うことになり、実際立ち会ってみたら、もうすごいさゆりちゃんのことが愛おしくなっちゃったみたいなんです。

今日、助産師さんに、
「お嬢さんが立ち会えなかったのは残念でしたけれど、旦那さまに見守られての出産で、良かったですよね~^ ^旦那さまの喜びようといったら、大変でしたね」
と言われました。

私は後産の痛みに耐えたり、傷の縫合をされたりしていて夫の様子を見る余裕などなかったのですが、産まれたばかりのさゆりちゃんに、夫はつきっきりで話し掛け、ひたすら目尻を下げていたらしいです。

また、助産師さんにこんなことも言われました。

「旦那さま、奥様のことを名前で呼ばれるんですね。出産の時、『芙蓉さん、がんばれ!もう少し、がんばれ!』と声をかけていたのを聞いて、なんかいいなと思いました^ ^普通、お子さんがすでにいらっしゃる場合、奥様のことをお母さんとかママとか呼びますよ。名前で呼ばれているのが、素敵だなと…お兄ちゃんも喜んでいたし、すごくいいご家族の元に、赤ちゃんが生まれて来たんだな…と感じましたよ」

…まさか、私たちがほんの二年半前まで、別居をしていた離婚寸前だったとは。

あの出産の場にいたスタッフの方々は、誰も想像出来ないかも知れません。

45歳で妊娠することも、またこうして母子共に元気で自然分娩が出来たことも、確かに奇跡です。

でも、それ以上に、あそこまで壊れてしまっていた家族の元に、こんな瞬間が訪れることの方が奇跡なのかも知れません。

出産に、ラムではなく、夫が立ち会ったことにすごく意味があったような気がしています。

私自身、今、夫に見守られて、さゆりちゃんを産めたことをとても良かったと感じているのです。

本当に、2人で力を合わせて新しい家族を迎えられた感じがして…
ラムにいい経験をさせてやることよりも、もしかしたら大切なことだったように思うのです。
でも、凄かったですよ^_^;…

出産の最後、さゆりちゃんをいきみ出す時は、まさに断末魔の叫びでした(笑)

ほんの少しの余裕もありませんでした…。

もう、人生頑張らないと決めたのに、全力、いや全力以上のものを出して頑張らないと、人間1人をいきみ出すことなんて出来なかったです。

夫が言ってました。

「ハナミチ、お前に代わりに立ち会わせようと思ったけれど、そうしなくて良かったよ。お前だったら、もう結婚出来なくなるかも知れないからな。最後のママは、凄かったぞ。ちょっと、お前だったらショックを受けるかも知れなかった」

夫はなんだかんだといっても、一番私の汚い部分も見せて来て、受け入れて貰って来た存在だったんだな、と気づかされました^_^;

ありがたいです。

あとがき

以上、いかがだったでしょうか?

5年の別居生活を経て、私たち夫婦は絶望の淵から、新しい命を育む幸せに満ちた家庭へと生まれ変わりました。

この大きな変化に、「どうしたら?」と不思議に思われるかもしれませんね。

別居5年の間に起こったこと、気づいたこと、再同居にいたりそこから私が何を実践したのか?
詳しくは
「離婚しないという選択」の本の中に書いています。
ぜひ参考にしていただけたらと思います。

最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

芙蓉